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FLAG予備知識集 / 桝谷直俊
■「ヴェトナム戦争における報道 その1」
皆さん、こんにちは。
さて今回は、ヴェトナム戦争の報道についてですが、その前にヴェトナム戦争について簡単におさらいします。
インドシナ戦争(1946〜54)によって、ヴェトナムにはヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)とヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に分裂しました。この南北ヴェトナムは東西冷戦の構図の中に組み込まれ、ソ連・中国という共産主義陣営(東側)に支援された北ヴェトナムと、フランス・アメリカという資本主義陣営(西側)に支援された南ヴェトナムという対立が発生します。フランスは1954年のジュネーヴ協定によってヴェトナムから撤退しますが、アメリカはフランスの後を引き継ぐ形で、南ヴェトナムの支援を継続します。
やがて、北ヴェトナムの支援を受けた南ヴェトナム民族解放戦線(ヴェトコン)が、南ヴェトナム政府に対して武装蜂起。南ヴェトナム軍及び、南ヴェトナムを支援するアメリカ軍と戦闘になります。さらにはアメリカ軍と南ヴェトナム軍は、北ヴェトナムからヴェトコンへの支援物資補給路を断つためカンボジアへ侵攻。またアメリカ軍は北ヴェトナムを爆撃(北爆)。北ヴェトナム軍は、南北の非武装地帯を越えて南ヴェトナムへ侵攻……とエスカレートしていきます。これがヴェトナム戦争です。
アメリカでは第二次大戦以前から始まっていたTV放送ですが、第二次大戦後になって一般家庭にTVが普及したことにより、ヴェトナム戦争の時代には「動く映像」の衝撃が、ダイレクトに一般家庭に届けられるようになりました。
またこの戦争では、それまで軍にしっかりと従属していた従軍カメラマンの活動が大きく変わったと言われます。記者は、顔なじみのヘリコプターパイロットに頼んで戦場へ向かうヘリに乗せてもらうなどして、独自に軍について回り、自由に取材活動を行いました。そのため、アメリカ政府の管理が及ばない映像が次々と人々の目に登場することになります。
まず、皮肉な現実が晒されることになりました。
アメリカは南ヴェトナムを「共産主義陣営に対抗する自由の砦」という位置づけで支援しましたが、その南ヴェトナム政府が反体制派を激しく弾圧するようすが報道されてしまいます。南ヴェトナム政府に抗議する仏教徒が焼身自殺を行う映像など、ショッキングな映像がTVに流れました。
そして、アメリカ軍の爆撃によって負傷し、逃げまどい、死ぬ人々の姿が報道されることにより「悲惨な戦争の現実」「民間人が犠牲になっている事実」が人々の前に突きつけられます。そのため、やがてアメリカ国内でもヴェトナム反戦運動が起こるようになりました。
ヴェトナム戦争ではアメリカ軍は、軍服を着ず民間人の姿をしたヴェトコンを相手にしなければなりませんでした。一般市民のどこにヴェトコンがまぎれ込んでいるかわからず、昼間は通り過ぎるアメリカ人に手を振りながら畑で働いているヴェトナム人が、夜になったらライフルを持って襲撃してくることもあるのです。そのためアメリカ軍は、敵性と判断した村を焼き討ちしたり住民を集団移住させたりして襲撃を食い止めようとしました。ですがそのようすが撮影されたマスコミの映像には、ヴェトナム人はすべて被害者としか見えず、「何のための戦争か」「アメリカは、南ヴェトナムの人々を助けに行っているのではないか」とアメリカ人に自問させるに十分でした。また、疑心暗鬼になったりヴェトナム人をすべて敵視するようになったりしたアメリカ軍による行動がエスカレートし、ソンミ村の虐殺事件などを引き起こしてしまいます。1968年3月16日にアメリカ軍がヴェトナムのソンミ村で、女性や子供を含む村民504人を虐殺した事件はマスコミに大きく報道され、ヴェトナム反戦運動を大きく勢いづかせることになりました。
長くなってしまったので一度ここで中断します。次回はヴェトナム戦争の話の続きです。
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