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FLAG外伝 第1章 /野崎 透
1.プロローグ(2)

 ここで一つ、視線を歴史に向けよう。
 13世紀、大カーン・クビライの下、空前の世界国家を築いた大元ウルスで一つの正史が編まれた。それは草原を制覇した蒼き狼の誕生にまつわる伝説から始まり、英雄の下でのモンゴルの興隆、さらに周辺の国々を次々と併呑し遂には世界帝国へと上り詰めていった元の歴史が編年体で記されていた。
 さらに正史には、他の史書と同じ様に周辺諸民族の風俗を著した章も設けられていた。その一節に、後世の歴史家達の興味を強く惹いた記述がある。暗殺教団として恐れられていた上部座仏教の一派、ゲルト派の興隆と、その血塗られた戦いの歴史——かつて暗殺国家として恐れられていた時代のウディヤーナに関する伝聞をまとめた一節である。
 正史は語る。その時代、ウディヤーナを支配していたゲルト派は、自らの厳格な宗教的姿勢を貫くために、周辺の国々に対して一切扉を閉ざす強固な鎖国体勢を築き挙げていたと。もちろん、宗教意識だけで鎖国を守れる訳ではない。しかし、周辺諸国に対して正面から軍事力で挑むには、ウディヤーナはあまりにも小国に過ぎた。
 ここでゲルト派は正に異様としか表現出来ない挙に出る。侵略の意図を見せる国々に対し、自らの信者を暗殺者として送り込み、次々と支配者を殺害したのである。
 しかも送り込まれたのはただの狂信者ではなかった。麻薬によって暗殺に駆り立てられた、既に人間としての感情を失った死の信者だった。
 現代も死の三角地帯として知られるチベット高原西麓は、この時代から既に麻薬の原料となる芥子(からし)の自生地として知られていた。当初、芥子は8世紀から9世紀に掛けて成立したと考えられているチベット医療の大切な薬草の一つだった。しかし、快楽と隣り合わせの薬効は、また頽廃(たいはい)の果実でもあった。
 この地域でいつ頃から麻薬の使用が始まったのかは正確には分かっていない。ただし、12世紀には既にその快楽を讃えた詩が謡われ、同じ頃に作られた石窟(せっくつ)に麻薬の性格を強く表す神が描かれている事から、少なくとも10世紀前後には人々の間に拡まっていたと考えられている。
 麻薬とゲルト派の結び付きは、独特の宗教儀礼が濫觴(らんしょう)なのではないかと考えられている。実際、信者を没我の状態へ導くために麻薬を用いる例は世界中の多くの地域で見られる。その経験と知識がゲルト派をして、麻薬によって暗殺者を作り出すという行動に導いたのだろう。
 元の正史は、暗殺者に選ばれた信者はまず長い期間麻薬漬けにされると語る。ひとたび麻薬中毒にされた信者達は、禁断症状の苦しみから逃れるためならば死をすら厭わなくなる。そうして作り上げられた暗殺者達が、次々と際限なく送り込まれて来るのだ。
 ゲルト派に対する恐怖は、周囲の国々に深く刻み込まれ、結果的にこの高原の小国を世界史における黒点としてきた。
 20世紀の末に到るまでウディヤーナが鎖国を維持出来たのは、まさにその恐怖のためだった。


 外の世界との正式な交流が禁じられていた時代、しかし、ウディヤーナの門戸の全てが完全に閉ざされていた訳ではなかった。むしろ宗教とも国家とも関係の無い漂泊の人々に対して、その扉は積極的に開かれていたのである。
 東西を繋ぐ主要な通商路が国の中央を貫くウディヤーナは、既に6世紀には重要な交易の要衝の一つとなっていた。特に峻険な山脈に囲まれた天空の国は、ようやくの想いで難路を越えて来た人々にとっては正に貴重な休息の地であり、多くの隊商がこの国で荷をほどいたからである。しかし、通商路のほぼ中央に位置していたスバシは、単に荷駄を列ねて通り過ぎるだけの中継地ではなく、東西から来た商人達が出会い互いの品物を交換する交易の場でもあった。
 交易商人にしてみれば、これから自分が目指そうという地からやって来た隊商と出会えるこの地で荷を捌く事が出来れば、わざわざ峻険な山道を超えてはるか遠方の地まで行く必要も無くなり、労力も時間も大幅に節約出来る事になる。そこで、東西の商人の間で荷を交換する者が増え始め、いつしかそれは大きく拡がっていき、遂には、日々盛んに取り引きが行われる市になっていったのである。
 こうして千年に及ぶ繁栄を積み重ねてきた交易も、ゲルト派の台頭と共に危機を迎える事となる。ウディヤーナの周りに築かれた鎖国の壁が、交易商人達の前にも堰の様に立ち塞がったためだった。
 周囲を峻険な山々に囲まれた高原の交易路に他に迂回出来る路は無かった。ウディヤーナを通過出来なくなるという事は、東西交易の断絶を意味していた。
 しかし、結果的に断絶が訪れる事は無かった。ゲルト派は隊商達に対して従来通り国内の通過を許したばかりか、さらに交易を盛んにするために、各所に滞在の便宜を図るためのキャラバンサライを設けたのである。
 こうしたゲルト派の行為の背後に、交易への賦課(ふか)を通して得られる莫大な利益を求める意図を見る事は難しくない。だがゲルト派が求めていたのは必ずしも経済的な利益だけではなかった。むしろ、隊商達を通してもたらされる様々な情報こそが最も強く求められていたものだった。
 小国が孤高を保って生き抜いていくには何よりも周辺の事情に通曉している事が必要となる。しかし、ゲルト派が周辺の国々に向かって築いた高い壁は、情報の流入に対してもやはり大きな障害だった。その中で、唯一の情報源となったのが、自由に諸国を経巡る隊商達だった。ゲルト派にとって、キャラバンサライに逗留(とうりゅう)し様々な商品と共に旅の見聞を広める隊商は、正に外の世界を映す水晶の球だったのである。

 こうしてウディヤーナの都は、宗教と交易の双方の顔を持つ都市となっていった。交易路は遥かな東と西の国から様々な文物をこの街に注ぎ込み、建物や人の暮しに多彩なモザイク模様を作り出した。仏教と地場の素朴な神々が中心だったウディヤーナの宗教が雑駁(ざっぱく)な信仰の混ざりあった一大マンダラとなったのは、正にそうした民衆の盛んな交流の名残りだった。インド人と共にヒンドゥーの神々が、ペルシャの商人と共にゾロアスター教の神々が、ウディヤーナに持ち込まれ、人々の生活の中に浸透して行ったのだ。
 そうした神々の中でもとりわけ強い信仰を集めてきたのが、今も生誕の女神として崇められているクフラ神である。
 この女神もまた、元は外の世界から持ち込まれた神であった。しかし、他の神とは違う穏健な性格や、またその再生能力がゲルト派の破滅的な信仰と互いに補い合う様に強く結び付いた事もあって、広範で深い信仰を集める様になって行ったのである。
 クフラへの信仰に関しては他の神々とは異なる様々な特徴があるが、その中でも特にゲルト派との繋がりを強く示唆するのが、人間の少女をクフラの転生女神として崇める独特の信仰形態である。この辺りは、開祖以来、代々ヌチャラント・ラ・ポーの転生仏を指導者に戴いてきたゲルト派の形態と好一対をなしており、それぞれ陽と陰を象徴する両者が一つとなってウディヤーナの精神世界を支配してきた構造を窺わせる。
 しかし、一方でそうしたクフラの役割は実質的な支配者であるゲルト派による方便だとする見方もある。クフラとゲルト派による二重支配構造は、本来相容れない存在である世俗と宗教間の葛藤を緩和し、かりそめの安定を現出するためのものだというのである。
 そうした主張の根拠となっているのが、かつてウディヤーナに幾度も大きな悲惨をもたらした歴史的事実であった。


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