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FLAG外伝 第1章 /野崎 透
2.戦いと報道(2)
旧市街を貫くメインストリートから静脈の様に分かれた脇路の中程に古びた行灯看板が一つ、ひっそりと立っている。しかし、ごつごつとした石畳に覆われた路面に投げ掛けられる明りは、ともするとうっかり見過ごしていまいそうなほどに遠慮がちだった。
何をそんなに怯えている?
それは看板に書かれた言葉を読めば分かった。英語と現地語の両方で書かれた言葉は、そこが酒場である事を示していた。そう、戒律に縛られた仏教国ではあまり表には出したくない場所だったのだ。
今、看板の前を一つの人影が曲がる。しかし影は、他の人間がそうする様に、一度立ち止まって周囲を窺ったりはせず、そのまま壁の上に簡単に打ち付けられている古い木の扉を押した。ギシ……金属製の蝶番が上げる低い呻き声を残して、影は半地下の酒場へと吸い込まれて行った。
「相変わらずだな、ケイイチ」
複雑な彫刻を施した古い木の椅子へ、くたびれた外套(がいとう)を掛ける様に身体を投げ出した赤城を出迎えたのは、いつもの様に前置きの無い言葉だった。赤城はほとんど頭を動かさず、視線だけを僅かに上げた。うっすらと部屋を覆う紫色の煙を通して仄かに上気した顔が見える。10年来の知己……いや、仕事上の仲間と言った方がいいか、やはり紛争地域を中心に世界中を駆け回っているアメリカ人のフリー・カメラマン、ジョン・メイヤーだった。
「何が相変わらずなんだ」
赤城は相変わらず眼差しだけを向けて聞き返した。メイヤーは赤城の傍の椅子に腰を下ろすと、身を乗り出す様にして聞いてきた。
「昼間の男だ。あれだろ? いつもの、情報屋ってやつなんだろ?」
「昼間?」
赤城は頭を巡らし、正面から相手の顔を見た。メイヤーは如何にも陽気で屈託の無い笑顔を浮かべていた。しかし、それが半分は見せ掛けに過ぎない事を赤城は知っていた。結局はこの男も生き馬の目を抜く世界に生きる糞野郎の一人だった。そんな男が底意もなく語りかけて来る筈が無い。せいぜい、街の中で取材する赤城の姿を見掛けて、何をやっているのか探りを入れる気になったというのが良い所だろう。
もちろん、悪意があっての事ではない。ここではそんな事は軽い挨拶みたいなものだった。だいたいメイヤーの方も、自分の底意が赤城に筒抜けな事くらい承知の上でこうして聞いてきているのだ。
赤城はフッと笑みを浮かべると、敢えて質問には応えず、逆にはぐらかす様に聞き返した。
「もう出来上がっているみたいだな」
「まさかだろ。今日はまだ一仕事もしてないんだ。そんな余裕は無いよ」
平然と答えながら、メイヤーは大振りなタンブラーを口に運んだ。中の琥珀色の液体はもう底の方にしか残っていなかった。
赤城はふと眼差しを目の前の赤ら顔から店内へと移した。馴染みの顔で、机はもう半分以上埋まっていた。しかし、そこには普通のバーやパブに見られる様な喧噪はなかった。“独善的な糞野郎ども”はそれぞれ取材の整理をしたり、インターネットで情報を集めたり、自分の世界に没入していた。
しかし、不思議とそこにはゴツゴツとした雰囲気は無かった。やっている事はバラバラでも、少なくともそこには、それぞれが他の人間のやっている事を理解している、一種の気の置けない共有感覚があった。
確かに仕事ならホテルの部屋でも出来る。それなのにわざわざここで仕事をしているのは、無意識の内にその感覚を求めているからなのだろう。
もちろん、赤城もその一人だった。
フリーのジャーナリストやカメラマンは一匹狼に見られる事が多いが、しかしどんなに凄い腕を持っていても、結局一人で出来る事は限られている。いざと言う時に物を言うのは、やはりコミュニティーの力だった。
その力を、赤城はつい半年前にも経験していた。それは中東の紛争地を取材していた時だった。そこで、同じく取材に来ていた日本人のフリー・ジャーナリストが、反政府側の武装勢力に拉致されてしまったのだ。
ジャーナリストの命と引き換えに選挙の中止を求める武装勢力に対し、日本政府はほとんど何の対策も講じようとはしなかった。確かに表向きは助命の交渉を続けていると発表していたが、それが単なる言葉だけに過ぎない事を赤城達は知っていた。退去勧告を無視して入国して来たジャーナリストなど、政府にとっては邪魔者以外の何者でもなく、本気で救出するに値しないと看做(みな)されているのは周知の事実だったからである。
この時、政府に代わって動いたのがフリーのジャーナリスト達だった。独自の情報網を辿って、拉致したのがどの武装勢力かを特定すると、最も影響力のある人間を頼って解放交渉を行ったのである。この決して表には現れない努力が実を結び、拉致されたジャーナリストが無事解放されたのは一週間後の事だった。
全てが解決した後になって、日本政府はまるで自分達が中心となって動いた様なアナウンスを始めた。しかし、フリー・ジャーナリスト達は敢えて異を唱えようとはしなかった。今さら何を言っても政府の態度が変るものでもないし、それにむしろここで恩を売っておいた方が得である事を知っていたからだった。
ただ、こんな時いつも実感するのは、いつもはバラバラのフリー・ジャーナリスト達がいざと言う時に見せる結束の強さだった。
だからこそ、フリー・ジャーナリスト達も普段からあまり隠し事をしたりはせず、それなりに情報を共有する様にしているのかもしれない。もちろん、何もかもあけすけにする訳ではない。それなりにタイミングを見図らないと、折角のスクープも台無しになってしまう。そこで腹の探り合いが始まるという訳だ。
ただ、元々腹芸の得意な人間が集まっている訳でもなく、探り合いも結局は不器用な儀式に終ってしまうのがせいぜいだった。
今もそうだった。しかし、その儀式ももう終った。これ以上続けても意味が無いと知ったメイヤーは、おもむろに振り返ると、カウンターに向かって図太い声を投げ付けた。「おい、バーボン。ダブルだ」。そして再び振り返って、赤城に訊いた。「でいいんだろ?」
仕切り直しだった。
旧市街の静脈にひっそりと身を沈める酒場。しかし1時間後には、スバシ中のフリー・カメラマン達がそこに集まっていた。
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